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  伊 東 昭 義 Akiyoshi ITO
 
日本大学芸術学部美術学科(彫刻専攻周须刻尊攻)卒。
現在、美術家(彫刻家)として世界的に活躍している。
彫刻の傍ら海中の美の探求者となった伊東は、やがて「海中の色彩の発見者」と評されるようになり、 海中世界を芸術に昇華させ『美術写真』と言う新ジャンルを確立させた世界初の作家となった。それらの作品世界は「偉大な自然の力」と「人間創造力」の結晶を純粋美術のカテゴリーに封じ込めたものであり、その先駆者としての芸術性は多くの人々に感動を与え続けており、欧米の『国立ミュージアム』において国際的評価を得てきた。
2015年、伊東昭議は、ユネスコ(国連・教育科学文化機関)にスペシャルゲストとして招聘され多大な功績を残すことになった。ユネスコ加盟国195力国からワールドオーシャンズデイの会議に参加した国王や政府代表者、有識者を含め約1200名の人々の注目を集め絶賛されることになった。さらに、国際性豊かな工ネスコ職員約2000名や、ユネスコ大学の学生、ユネス口保育園の園児、それに一般参加者を加え『地球が愛おしくなる』...と言わせるほどに、大きな感動を残すことになった。それは芸術の持つ力が世界をーつに結ぶ瞬間となった。
 
1994年 『伊東昭義の世界』 於:東京芸術劇場
1995年 『沖縄の美しき水中世界』 沖縄戦後50年記念巡回展 於:JALホテルグループ5社
1998年 『フィリピン独立100年記念展』 於:関西国際空港(後援:フィリピン観光省)
2000年 『沖縄サミット記念展』 於:リウボウホール
2002年 『伊東昭義・海中アートの世界』  於:リウボウ美術サロン
2003年 『伊東昭義・海中ミュージアム』 於:笠間日動美術館
2004年 『伊東昭義・竜宮の海』 於:渋谷東急本店
2005年 『伊東昭義・米国立スミソニアン展』於:スミソニアンS. Dillon Ripley Center International Gallery
2006年 『伊東昭義・竜宮伝説』 於:酒田市美術館
2007年 『伊東昭義・竜宮物語』 於:しもだて美術館
2012年 『伊東昭議・国立ポルトドレ宮殿・ギャラリー展』 於:フランス・パリーフランス文化省招聘
同 年 『伊東昭義・アリナリ国立写真美術館展』 於:イタリア・フィレンツェ
2013年 『伊東昭義・波の下の奇跡』 於:伊東昭義美術館
2014年 『伊東昭義・龍宮伝説』 於:伊東昭義美術館
2015年 『伊東昭議 in パリ・ユネスコ展』 於:UNESCO(国連・教育科学文化機関)
(後援:フランス政府・モナコ公国・ユネスコ日本政府代表部・日本ユネスコ国内委員会)
同 年 『伊東昭義・教育巡回展』をエネスコ日本政府代表部により作品を無償にて貸し出しを開始
2016年 『伊東昭義・ユネスコ展開催記念展』 於:伊東昭義美術館
(後援:フランス政府・モナコ公国・ユネスコ政府代表部・日本ユネスコ国内委員会・沖縄県)
2017年 『伊東昭義展』 於:ミウラート・ヴィレッジ(三浦美術館)
 
 
『Kケルビン/生命の色温度』(風鳴堂書店1994年)、『からだとこころを創る幼児体育』(日本放送出版協会1995年)、『奇跡の海(光村推古書院1999年)、『奇跡の海。沖繩』(光村推古書院20000年)、『龍宮の海』(求龍堂2010年)『海には海の詩がある』(角川学芸出版2010年)などがある。
 
元大手新聞社のカメラマンであった伊東昭義の父信義は、愛馬にまたがり、時には愛馬をハーレーダビッドソンに乗り換えて荒野を疾走する冒険家でもあった。また、絵を描き、書道をたしなみ、カメラを製作したり、当時自家用車が珍しかった時代にロールスロイスを自分で整備しながら乗り回していた。さらには、小学校の体育館を買い取り、巨大な写真スタジオに改装して新境地を切り拓いたかと思うと、一転して土木事業に進出し、道路を拓き、橋を架けることに情熱を燃やしていた。信義は職業に垣根を作らないクリエーターであった。つまり、文化人と起業家としての才覚を兼ね備えた人物だったようである。伊東昭義はその父親の血をそっくり受け継いでいた。幼少の頃の伊東は郷里 (金沢) の山河を駆け廻り、海に潜り、一年中自然を相手に格闘していた。正に自然児そのものであり、彼の思想の構築に重大な影響をもつことになる。ー方、家の中にはプロ用カメ ラが何台も置かれていて、小学生の伊東にとってのカメラはおもちゃ代わりで、写真が特別な存在ではなかったようである。小学生の4年生頃には絵の才能が芽生え、画家になることを宣言して周囲を驚かせ、中学生になると彫刻に目覚め、全国大会でグランプリを取るなど頭角を現わすこととなる。それら数々の賞状を父親が壁一面に画鉄で止め、親バカとも言える記念撮影をしたが、学校から帰るとそれらの賞状は、二階の窓から花吹雪のように撤き散らされていた。そのことを問い正すと、一言『賞に頼る人間になるな』であっ た。画家への志も高校生になると陶芸家の道へと変貌し、在学中に北陸現代展にて早くも作家デビューを果たしているが、ヘンリームーアの『彫刻』との出会いが、その後の人生を大きく決定づけていっ た。
大学卒業と同時に美術研究所を設立し、彫刻家としての華々しいスタートを切り、有名美術団体でのグランプリや、現代日本美術展への出品へと踏み出していくが、それらは同時に『賞に頼らない生き 方』を思い興させることでもあった。芸術という枠に納まりきれない伊東の創作意欲は、以後、芸術以外への社会貢献を模索することになる。折しも、都市化とモータリゼーションの波は、子供たちから遊び場を奪い、人間の存立基板と言うべき『運動能力や体力』を低下させ、人類が築いてきた対自然観さえも歪めてしまうことを危惧した伊東は、未知なる教育分野である『幼児体育』の創始者として、クリエーショナルなアプローチを展開させることになる。幼児体育の方法学・運動処方と指導体系・これらは伊東昭義の思想体系へと組み込まれ、日本全土に影響を与えてきた。幼児体育を世に送り出した伊東は、『生命の源流と美の本質』を壮大な海に求めて、真の芸術への探求を開始する。なにかに導かれるように沖縄の海と出逢うことになった伊東は、かつてない衝撃を受けることになり、以後、伊東は沖縄から世界の海を巡り、その新たな思想の展開と集約が『美術写真』という領域に先鞭をつけることになったのである『彫刻』に始まり、『幼児体育』から『海中芸術』へと続き、それら文章表現を伴った伊東の宇宙には、自然に対する大いなる喪敬の念と、普遍の愛や美意識で見事に統ーされることになったのである。それ は、生命の源である海中の生きものたちの美しさを芸術に封じ込めた、青い地球(ホシ)の記録でもある。国内の美術館やデパートから、米国立『スミソニアン』での個展。フランス国立『ポルトドレ宮殿・ギャラリー』・イタリア国立『アリナリ写真美術館』を経て、『ユネスコ』(国連・教育科学・文化機関)展へ・・・。それは、ユネスコが認め、世界のメディアが絶賛した伊東芸術そのものであり、そこには、『美術写真』という未踏の頂への長い道のりがあった。